阪神淡路大震災が転機に。リハビリで見た幸せの笑顔

阪神淡路大震災が転機に。リハビリで見た幸せの笑顔

いつもお読み頂きありがとうございます。

子供いないシンジさんご夫婦は
二人仲睦まじく神戸で暮らしていました。

あの時までは・・・

阪神淡路島の人々の多くの命を 呑み込み
人生を覆した 平成7年1月17日

このマグマは
そんなシンジさん老夫婦の人生をも
打ちのめしたのです。

震災後も 足にケガを負いながら 頑張っては来たシンジさん

しかし 子供のいないご夫婦にとって
高齢と震災の壁は高く厳しかったのです。

そして 将来を考え ご夫婦は奥さんの親戚のいる町に移り住みました。

シンジさんが 私達のデイケアに来たのは
それから 数年後です。

きれいな言葉使いと、上品な いで立ち 柔らかな物腰からは
震災の凄まじさの陰りすらも
私達は 感じることはできませんでした。

ただ 引きずるように歩く シンジさんの左足だけが
このご夫婦の悲しい生き方を 教えてくれていました。

いつも 来室して私と目が合うと 恥ずかしそうに会釈をされます。
リハビリを始めるときは 必ず
「よろしくお願いします」と一礼されます。

そして 最後は 必ず「ありがとうございます」と
丁重に頭をさげられるのです。

そんな 時間が数年続いた 秋の終り

いつものように リハビリを終え
「ありがとうございます。あさっても 宜しくお願いします。」
とシンジさん 満面の笑みで 挨拶され お別れしたのです。

いつもと変わらぬ静かな午後
そして いつもと変わらぬ朝を迎える事を
疑いもせず思っていた私達に届いた 信じられない訃報

「朝 奥様が静かにねているシンジさんにお声をかけたら
息をひきとっていたそうです。」と

この時 どうして 自分の親戚ではなく
奥様の親戚のいる町を選んだのか
私は やっと分かったのです。

ご自分が先に逝った時
残された奥様が寂しくないように
だから奥さんの親戚のいる町に 連れて来たのだと・・・

子供がいない老夫婦 生活の全てを失い
言葉も 風習も違う 知らない町での生活

どれだけ 大変だったかは
決して 口にすることはありませんでした。

いえ、いつも そこで出会った 知らない人達の温かい人情に
感激し 感謝していたシンジさん

すべての悲しみを呑み込み 旅立たれた最後は
幸せに満ちた穏やかな 笑顔だったそうです。

1月17日 私もこの日を忘れることはありません。



介護でお悩みの方へ

介護ママの伝えたい介護のツボは、
介護でお悩みの方のお力になりたいと考えています。

どうしたらいいか分からないなどお悩みのことがあれば、
こちらの連絡先にお気軽にご相談ください。

可能な限りお力添えさせていただきます。


広告

6 Responses to “阪神淡路大震災が転機に。リハビリで見た幸せの笑顔”

  1. 悲しい気持ちと こぐ労さん の気持ちと どちらも 交差する お年寄りの 死 介護の施設に いると 人間性と家族との関係が 浮き彫りになります 私も気をつけようと思いますが 中々性格は変わりません 

  2. 介護ママ より:

    >おばちゃんさん
    いつもありがとうございます。人の死は、時にはその方の人生を物語ることがありますね。私達は、時にはその最後までをも受け止めなければばらないことがあるのかもしれませんね。

コメントを残す

広告
サブコンテンツ

このページの先頭へ